ペトル・シャバフ

(■1■ つづき2)

 私には、この口に含んだものを飲み込むことはきびしかった。そして、いうなれば、数分後に、ちがう世界を感じはじめてしまったのだ。それはまず、くちびるのふるえだった。それから、そのふるえ(むしろけいれんか)が全身に広がっていった。これが、ちょうどはじまりだった。それから、色がつづいた。身のまわりの色が変化した。目の前にある草は、ケンタッキー州のどこかで月夜に座っているときのような青色をしていた。太陽はこのとき血のように赤 く、ずっと空のてっぺんにあった。似たような別の奇跡を見た。ケーキ屋さんが色をつけたオオムギみたいなかわいらしい桃色をしているものもあり、私のまわりを舞っていて、まるで香ってくるようだった。そう、それから香りがやってきたのだ。私のなかのどこからか聞こえてくるメロディーにのってまぶしいような、濃厚で溶けるような香りだ。まぶしさのなか、けいれんする美しさで身体が硬直し、その後、すべてが一緒になって流れだし、しみわたっていった。そうして、色から音楽や香りになった。水晶のように透明で硬質な静けさのなかでゆっくりとただようように、またすべてが変わっていく。このすばらしい世界のルールの調和のなかで、私は笑いたくなってきた。時間には意味がなくなった。どんな瞬間でも私は好きなだけ長くこうしていられる。あるいは、もうそんなことは止めて、元にもどることもできる。もしできるなら、この瞬間に自分にはさしつかえる状況があるとしたら−−そうだとしても私は「そんなのムダだ!」というが−−、シンプルに私はそんな状況をやめて、そのまま消し去った。ひとつの小さな思いもしなかったキノコが意識にもたらしたこの状態は、この世の数時間続いた。
 これはただの私の秘密なだけで、いつであろうとだれであろうと教えるつもりはない。そのキノコに向かって私はまじめに「ばーか、ばーか、ハハハ」と言いはじめていた。ふさわしいものは何も思いうかばなかった。夢中になったこのときから手に入るあらゆる文章を読み、可能な場所に思いがけず自分をしるしたが、だれもなにも知らなかった。「化学者」とよばれる人ですら、だ。実際にいろいろなことを実験しているのに。こういう専門には、ただ教室だ。その彼はサボテン展示会で、初日すぐに偽物を購入した。私たちには一ヶ月ほどそんな話は聞かされなかった。彼は何も知らなかったどころか、肩をすくめて「問題ない。彼らにはどうでもいいこと!」と言ったくらいだというのに。

(さらにつづく)

ペトル・シャバフ「フランチシェク・Sの個人的な問題」

全159頁、29章のものなので、ちびちびと。
Petr Šabach, Zvláštní problém Františka S., 2007, 6. vydání, PASEKA.

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(追記)まとまった量が上がったら、手直しして一つのファイルにしようと思います。草稿段階の訳と思ってくださいね。
 日記アップ後に見つかった間違いには取り消し線を引いておきます。

■1■
 私は40歳ちょっとで、名前はといえば、「キノコ狩りさん」って呼び名がつくまえに、フランチシェクって名前がすでにあったと思ういうんだが、考えてくれたのはフランチシェクだった。フランチシェクは「キノコ狩り兄さん」ってよく口に出してい耳にした。だけど、それもすべてごく最近になって始まったことだ。とにかく最初は、私は森の木が伐採されるエリアに住んでいたが、そこには私がログハウスとよぶようなものが、をフランチシェクがいつしかできあがっ作り上げていた。

 私はいま40歳とちょっとだけど、一人前の男にしてはみすぼらしい年月だ。ちょっと、ちがったふうに考えてみてください。あなたは鏡に映った自分を見てつぶやくんです。「おい、ちょっと待て、またか?」。想像してみてください。おでこにプリントされたかのようについている小さいボタンの跡。つまらないことだが、私はそんなことで小一時間すごしてしまうということをただ話したかっただけかもしれない。

 罰せられるような部分さえ含んでいる私の安心感は、いったいどこへ消えてしまったんだろう。不思議な美しさにあふれるレースを夢にみている、あの幸せな森のバイオリニストの子どもはどこにいるんだろう。それから、いじわるな悪夢のように20番目の5度音程と7番目の8度音程の違いを考えることから離れられずにいるあの男はだれなんだろう。それから、あのばかげたボタンはいったいいつになったら枕カバーのなかに消えてくれるんだろう。

 ある者はそんなことは気にかけずに、この年齢でいつもどおりの安酒に手をつける。またある者は、いつまでもすばやく新しい女の子を追いかける。さらには、一日100回クリックすることで、自分のサマラから逃げる者もいる。だれもがただ自分のまわりを片づけているだけ。そうだね、私は古びた膝で、ぐうたらになっているんだ。
(つづく)

ペトル・シャバフ

(■1■ つづき)

 私は、偶然から生まれた、いわゆるぐうたらである。わかっている。これはまるで突然のことのようにきこえるだろう。びっくりしてあたかも「私は世界における偶然のたまものだ!」といわんばかりにみえるだろう。まるで「私は何者でもない、音楽家なだけだ!」と言いはるときのように、それがとてもダサくきこえるってことにも、私は気づいている。しかしだ、本当なのだ。そこには何かがある。

 あるとき、昼下がりに私は森へ出かけた。本当のキノコ狩りの人ならおそらくしないようなことだ。このとき、すでに私は疲れてボロボロで、少しのあいだ、ちょっといい感じの切り株のある場所に腰かけていたんだ。その場所についてはあとで全部話すことになるだろう。私には、その瞬間、なにが自分の頭にふりかかってきたのかわからないが(私にとって神聖なもののためにちょっと言っておくと、ふつうはそんなことはしていない)、ともかくなんだか機械的に草のなかからキノコを採り、口のなかに詰めこみ、ゆっくりと噛みしめたのだ。

 本当におそろしく思いもよらないキノコで、まったくキノコの手本ともいうべき一切れだった。まるで、こんなキノコだった。たとえばあなたがこれまでキノコを見たことがないという子どもにキノコ図鑑を貸したとして、そこから、そのキノコを見つけたとしますよ。「今度はすぐにキノコの絵が描けるね!」といって、その子どもはきっと、あらゆるキノコから目の前にちらついたものをつくりだしてしまうだろう。ユニバーサルなキノコ、何番目かのキノコ、最初のキノコ、つまり、自然ではぜったいにみられないものを。
(まだまだ続く)